蜂蜜生せんべい 田中屋

愛知県知多半島銘菓 半田のおみやげ 生せんべいといえば 田中屋


家康と岩滑城 (1/2)

矢勝川をはさんで北(写真左側)が阿久比町、南が半田市。正面の森に岩滑城があった

永禄三年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元に加勢した徳川家康は織田信長勢に押され、やむなく母(伝通院)のいる坂部城(今の知多郡阿久比町)に逃れて来ました。そこから伝通院の妹の嫁ぎ先の岩滑(やなべ)城(今の半田市)を訪れようと、さらに南下。矢勝川を渡り半田に着いた時は昼近く、疲労と空腹のために駒の足もにぶっていました。
家康は、とある百姓家の庭先に干してあるせんべいを目にしました。娘みつは、そのせんべいが生であることを恐る恐る申し上げたところ、「いや、生のままでもよい」と、家康はたってそれを所望。いかにも美味しそうに頬ばりました。
そして、家康が半田に滞在中はせんべいを生のまま献上するように申し付けて、百姓家を後にしました。


家康と岩滑城 (2/2)

岩滑城跡に建つ常福院

翌日、献上品を持って岩滑城を訪れ、再び家康に会ったみつは思わず目を見張った。この方が昨日のお人・・・・。その天下をのむ気概と精悍な面持ちに心を奪われ、一人ひそかに慕うようになりました。

しかし所詮届かぬ思いのはかなさを知ったみつは、家康が陣をととのえ三河に去ったそのとき、知多の山の緑にかこまれた美しい池に姿を消しました。そのしらせに村人がかけつけた時は折りしも昇る朝日にきらきら輝く雲母があるばかりであったそうです。
のちにその雲母にちなんで一枚一枚重ね合せた生せんべいを作るようになったと伝えられてます。

今、矢勝川のほとりの岩滑城跡には、甲城山常福院(勝時が建立)が建っています。かつては城山と呼ばれたこの地は、また弥生時代の遺跡のあるところでもあり、岩滑という地の歴史の古さを思わせます。